珍しくサイト紹介 その2、「アメリカン・サイコ」についての考察
#EOS 40Dで撮影。東京ビッグサイトにて。
前回に続いて、サイト紹介。
xylocopal's Weblog
http://xylocopal.exblog.jp/
xylocopal's Photolog
http://xylocopal2.exblog.jp/
名古屋にお住まいの、xylocopalさんのサイト。
カメラや撮影そのものから、猫の話、躁うつ病の話など、ジャンルが多岐にわたり、かつ興味深く書かれているサイト
饒舌、ととられる向きもあるだろうが、じっくり腰を落ち着けて読めば勉強になることばかりである。
また、ご本人が猫好きということもあり、猫の話題も多いが、長年xylocopalさんの家にいた猫の話を書いた
黒猫物語-18年間ともに過ごした猫-Part.1
http://xylocopal.exblog.jp/657270/
サバトラシロ物語-鎮魂カムニャくん-Part.1
http://xylocopal.exblog.jp/i12/
は、ペットを飼い、その死に向き合ったことのある人なら、涙なくして読めないのではないだろうか。もう一匹の猫、マオの話も読んで見たいと思う。
必見のサイトである。
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以下、少々理屈っぽい話。
スカパーで、「アメリカン・サイコ」を放送していた。
あらすじはリンク先を読んでもらいたいが、可愛い彼女、魅力的な秘書を持ち、ブランドで身を固め、トレンドの追求に余念がない、成功したエリート証券マンが、それでも心満たされず、猟奇的殺人に走る映画である。
町山智浩によれば、「バブルな80年代の非人間性を描こうとした」(「底抜け合衆国-アメリカがもっともバカだった4年間」洋泉社 ISBN4-89691-843-6)
とある。
その通りかもしれない。
日本では80年代は無の時代のように書かれたりするが、アメリカもそうかもしれない。
でも、なぜ、心満たされず、猟奇殺人という行為に走るのだろうか。
「アメリカン・サイコ」に限れば、ブランドの愛用にしろ、トレンドの追求にしろ、自分が作り出したものではない。他人の作ったもの、他人が仕掛けているものに『乗り』、クールな自分、かっこいい自分、イケてる自分を演出しているだけである。
「自分を演出すること」も「自分が作り出すこと・モノ」と等価かもしれないが・・・。
演出した自分を、褒められ、認められ、惚れられることが、満足につながるのだろう。
が、そのうち、「そんな自己」に嫌気がさしてきたのではないか。
あるいは飽きてきたとも。
その感情から、自分の存在や、行為そのもののに正当性や意味を見出せなくなってしまう。
にもかかわらず、周囲の評価は「以前の自分」に対するものだ。
「以前の自分」は喜んでいたが、今はその評価、あるいは自分自身にうんざりしている・・・
結果として、虚無感に陥り、新たなる刺激や、「生きている実感」を得るため、猟奇的殺人という、極端な行動に走ったのではなかろうか。
映画には、はっきりそうとは描かれていないけど、そんな解釈をしてしまうのだ。
xylocopalさんの、猫を飼う行為は、小市民的ではあっても、猫の一つ一つの行動や状態に一喜一憂して、かつ、人や猫を含めた、生き物が生きていくことの意味を見出せる。
「アメリカン・サイコ」の主人公の様に、虚無感を感じずに、あるいは、猟奇的殺人に走ることは決してない。
xylocopalさんのサイト紹介から、まったく関係ないと思われる「アメリカン・サイコ」の考察につづくのは、こんな感想をもったからだが、飛躍しすぎかなー?
by rshingen | 2007-12-21 01:26 | その他全般